昭和五十七年二月十五日 朝の御理解
x 御理解第五十節 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」
今日の合楽の御比礼と申しますか、おかげを受けておるその事は、神様がいうなら合楽任せというか、合楽を中心にしてお働き下さってあるというふうに思います。神様が合楽中心に動きなさる、とまあ何か大変大きな事のようですけども、思うてみれば思うてみるほどそう実感せずにはおられませんのが今日合楽の御比礼だと思います。その大元を尋ねますと三代金光様から頂いておるみ教えの中に「氏子が神様任せなら神様が氏子任せになると仰せられますから」と。もう私は椛目、合楽をとおして、この信心で、ま、一貫してきたように思うです。
どんな場合であっても神様が中心である。いうなら神様任せである。そういう信心が段々出けてまいりましたら、成程これが神様が氏子任せになって下さるのであろうか、と思われるようなおかげを感ずるのです。第一合楽理念なるものの誕生、またその合楽理念の内容であります人間が人間らしう生きる手立て。宗教につきもののように言われておった表行、そういう、いわゆる火の行とか水の行とかいったようなものが全廃になる。ま、いうならば過去の宗教者が夢にも思わなかったような表現で人間が人間らしう生きながら、しかも徳を受けていけれる。しかも神様が氏子任せになって下さる、というようなおかげを受けていけれる、ね。
教祖の神様の御信心の内容に合楽で申しております、いわゆる合楽理念が、その内容にあるのですけれども、それをそうと気付かなかった、という事があります。それがいつの間にか、いうなら私が神様中心、かみ任せの生き方をさせて頂いておりましたら、神様が大坪任せ、いうなら合楽任せになって下さっておられるその様子から伺われるのが合楽理念です。
だからいうならば本当は教祖金光大神の信心の独自性を合楽では発揮、そりゃ色々独自性と言われてきた事がございます。教団、金光教の信心がこういうところが独特なもんだ、と。けれどもそれとは別な、いわゆる人間が人間らしう生きる生き方。問題は実意丁寧神信心は中心でありますけれども、ね。神様が氏子任せになって下さるから、と言うてどういう我儘でも、なら我儘任せになって下さる、という意味ではありません。人間が幸福になっていくという事なんです。
人間が幸福になっていくという事の為の働きなんです。ね。そこにはだから教えに従い、しかもその教えに従った信心生活というものが、です、ね。今迄かって宗教者が体験した事のない体験をさせて頂きながらおかげを受けていっておる。例えば人間が人間らしう生きる生き方とか表行全廃とかいったような事だったら、過去の宗教者だったらもう一遍に、ね。まあ仏教でいうなら破戒といったようなふうに考えて破戒の憂き目を見た事でしょう。本当にそういう意味でね。私は今日の御理解を頂いておって、氏子が神様任せなら神様が氏子任せになって下さる。神様任せ、という事の内容と、ね。神様が氏子任せになって下さる、という内容とを思うてみる時に、その内容に私共が気付かせてもらいそれを家業の行、又は生き方の上に頂き表わしていく、という事。
どんな場合であってもだから和の心を目指す、という事に於ては変わりはない。例えば破戒と思うておったような事にも素晴らしい神様の神愛を感じさせてもらう。和の心がひとつも崩れない。そういう生き方、いわゆるおかげは和賀心にありという、その和賀心の内容というものは充実してきた。和賀心の内容が神様任せ。和賀心の内容が神様が氏子任せになって下さってある実際、実情、それが和の心である。それがいよいよ心を豊かに、いうならば肥をせいでも一人でに物が出来る、という事は、神様が氏子任せになって下さる、という事の範囲が深く広くなってきた、という事なんです。どういう中にあつても、だから和の心を求めなければならない、という事は、ま、絶対のものです。ね。
人間が人間らしう生きる、という事の内容も和の心の中にあるものでなからなきゃなりません。
昨日福岡の伊藤さんの所に、毎日朝参りをしておる、という、ま、熱心に参っておられる婦人の方が時々こちらへ御礼参拝して見えますが、昨日、そうですね、お米をまあ一斗もあるでしょうか、お供えに持って見えました。それがどういう事かというとお米屋さんからお米が来たから米をこう計って入れよったところが米の中にゴム輪が入っておった。こう丸いゴム輪ですね。そん時にね、実感、まあ、されたのは、はあ神様が輪(和)の心にさえなれば、ね、米ですから、ママになるおかげが受けられる、というまあひとつの閃きですよね。米の中にこのゴム輪が入っとった。感じた事は今言うように和の心になれ、丸い心にさえなれば、ね、いわゆるママになる、という実感であった。だからそれをそのままお米をお供えに持って来た、というわけなんです。ちょっと滑稽な感じがしますね。米の中にぎゅった…ゴム輪が入っとったぐれな事で、いうならその米を全部合楽に持って来てお供えをする。ちょっとおかしいような感じがするんですけれどもね。そこにはね、もういよいよこの和の心というか、いうなら自分の心を豊かに大きくしていこうとする思い、というものが心の中に一杯丁度あっておった時だからだ、と思います。朝方お夢を頂かれた。zお夢の中に山の頂上に黒衣を着た方達が沢山並んでおられる。はあ、合楽の修行生の先生方だなあ、と思うた。ところが親先生のお顔が見えんから、どうぞ親先生を拝まして下さい、と祈った。そしたら中央に大きな親先生が現れて、しかも後光が射しとった。その有難さ勿体なさというものがね。その、お米のお供えにつながってるんです。
普通の時、何でもない時に米を計よったら米ん中からゴム輪が出て来た位な事で感じもしないでしょうね。そういういうならばまあこれは宗教者じゃなからなければ味わう事の出来ない宗教的感激といったようなものがある時に、ね。しかも和の心、和の心と思うておる時にその、米の中からゴム輪が出てきた。もう和の心にさえなれば心ひとつですべてを創る、と言われるが和の心、この和の心にさえなれば、しかも米の中から出て来たという事は、ね。いわゆるママになる、という、それに先生の一番お好きなもの、と思うたらお茶が大変お好き、だというので、まあ上等のお茶をそれに添えてのお供えであった。ね。
あのうどうかせずにはおれない、というものがです。やむにやまれんものがです。普通から考えたらおかしいような事にまで気が回っておるわけ。けれども私は本当な事はやっぱりそうだと思うんです。和の心にさえなればママになる。ね。ですから如何に合楽理念が人間が人間らしう生きる手立てが説いてある、というてもです。和の心を欠いだら駄目です。自分はこんな事をしておる。こんな心の状態でおかげが頂けるだろうか、といったような心ではおかげにならんです。ね。
それはまあだ心は肥えてない証拠です。だから私が思うのはね。そういうおかげが一遍に頂けるとは思われないですけれども、合楽の只今の御比礼が神様を中心、神様任せになければ、氏子が神様任せなら神様は氏子任せになる、と仰せられますから、というそのみ教えをいよいよ有難しとして受け抜かせて頂いた、それが基本であり基礎になってるという事なんです。ここなしに和の心は生まれません。ここなしに人間が人間らしう生きる生き方ばっかり言いよったら、もうそれはおかげになりません。ひょっとするとそれは破戒という事になるかもわかりません。けれども根本の所にです。いうならばどのような場合であっても神様任せで行く、という生き方がその、基礎になって、ね。そこから生まれてくる和の心、ね。私は合楽の今日の御比礼というのはそういう、いうならただ和賀心和賀心、ただ心を肥やしさえすれば、というのではなくて、ね。いうなら天地日月の心になること肝要と言われるその、天地日月の心になることの精進も、です、その根本のところに、氏子が神様任せになったところから神様が氏子任せになって下さってある、それが今日の合楽理念だと思うんです。根本はだから神様任せ、神様中心が先決なんです。ね。
それが出けて生まれてくる人間が人間らしうという生き方なんです。そこからは必ず、ね、いうなら一切の事に御の字がつけられる、いうなら和の心が生まれてくるのです。今日はいよいよ、ね。まあ兎に角黙って治める、とか成行きを尊ぶとか大切にする、とかというような生き方がいよいよ心を肥やす手立てである事は勿論です。ね。いわゆる養素拝山なんです。自分の心を養う、という事は、いうならば一切を黙って受ける、といったような生き方が最高なんですけども、それのもうひとつ向こうにある基本になったもの。合楽の信心の基本になったものは氏子が神様任せならと仰せられる、そこん所が徹底されたからだ、とこう思うです。
そこに神様がいわゆる大坪任せになって下さっておるあり様が今合楽理念であり人間が人間らしう生きながら、という事になってくる。ね。神様がもういよいよ私が赤と思うたら、もう神様が赤になって下さる。私が白と思うたら神様が白になって下さる、ね。だからその元は結局神様中心の生き方、いわゆる神様本意の生き方から神様が氏子本意、大坪本意になって下さっておる姿が今日の合楽の御比礼の様子である、と同時に合楽で説かれる教えの根本はそこなんです。ね。
先ずは私共が神様任せになる、いうならば素直心をまず作ること、ね。そこからいうならば天地日月の心も合楽で言われる合楽理念の実験実証もです。ね。本当な意味に於てです。ね。私共のこころの中に有難いなあ、と。本当に自分位な者に勿体ないお知らせを頂いて、というその宗教的感動がないと任せられんのです。宗教的感動がなからなければ、ね。本当のいうなら御用と申しましょうか、生き方、というのは生まれてまいりません。
その生き方の中には、ね。信心の薄い者、やない者から見たらおかしいようなところがある。わざわざ福岡から、ね、そのお米のお供えを持って来られた。それがどこにたんをはしっておるか、というと、このゴム輪がその中に入っておったからだ。そのゴム輪を自分の腕にこうはめて見えておりました。このゴム輪でございます、と言うて、ね。そのゴム輪ひとつがどういうふうに、その響いたか、というと、ね。この和の心にさえなれば、という一念である、なればママになる、という、いうならばまあ思いがね。
昨日の参拝、またはお供え、という事になられたように私共もね、宗教的、いうなら喜び、感激というものがです、ね。普通では出来ないような事が出来るのです。ね。そこに心がいよいよ豊かに肥えてくる。いうなら和の心が育たなければ駄目だ、というです。和の心の中に、いうならば天地日月の心が入ってくる、ね。私は随分御比礼頂いた教会、日とが沢山助かった教会は沢山あるけれども、合楽の場合は私自身が、いうならば神様任せの生き方、を土台にして合楽は誕生した。
だから一切の教えが、ここのところが基本になっておる。そして合楽で説かれる、ま、いうなら自由無碍なお話が、ね。様々な角度から説かれる。あの教えの全てがです、ね。神様が大坪任せになって下さる事を確信してのお話である、という事でございます。どうぞ